昭和49年01月16日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 信心の稽古をしておけここは信心の稽古場、ここは信心の稽古をしに来る所と、後にも先にもはっきりと信心と言う事が、ただ拝む事の稽古であるとかお参りをする事だけではなくて、金光様のご信心はどこまでも稽古をしなければならない。しかも稽古ですから限りがありません。これで良いと言う事はありません。ですから信心の稽古に通うておるという自覚と云うか。今日は何を教えて頂くであろうか。
 今日はどこを勉強するのだろう。今日はここに取り組んで一つ稽古をさせて頂こうと云うようなふうに、そういう予習復習が出来なければ、信心は上達するものではありません。何十年参っても、ただお参り信心、おかげ信心という様なふうに云われますけれども、それでは信心の上におかげ信心、お参り信心と言う。金光様のご信心はどこまでも、真の信心と言う事がおかげの焦点です。
 そこで私どもがどういうふうな願いを 願わなければならないこと。最近は皆さんご祈念をなさるたんびに、五つの願いをなさっておられると思うんですけれども、その五つの願いとてもです、ただ願うだけではなくて、それが頂けれる。五つの願いを立てておる、その願いが成就するおかげを、自分の身の上に家の上に頂かなければならない。そこでお互いの願いの中にです。
 これは五つの願いと同じように、これはいつでもどんな時でもです、これだけは一つ、唱え言の様に唱えさせて貰う。願わせて貰うですけども、それと同時にですどうぞ神様、より信心を分からせて下さい。真の信心をさせて下さい。どうぞよい修行をさせて下さい。そういう願いがお互いの信心の、五つの願いと同じようにあっておるだろうか。どうぞ今日もよい信心の稽古をさして下さい。
 よりよい本当な事を分からせて下さい。真の信心を分からせて下さいと言う、その願いが根本にあって、初めて信心の稽古が出来るという事が云えますですよね。だからその願いを持ちませんと、信心に意欲が出てきません。信心の稽古をさせて頂いておるという自覚。しかもどこを目当てにお互い信心の稽古をしておるか。どうぞ体の丈夫を頂かせて下さい。どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さい。家庭に不和の無きが元と仰せられるから。どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さい。
 どうぞ子孫繁盛家繁盛のおかげをお願い申しますと。これを本当に願ってこれが成就すると言う事は、お互いの願いの全てではなかろうかと思うくらいですね。人間が願う。しかしそげな欲ばった事願ってもよかろうかといや、何じゃけれどもです。それが段々分からせて頂いて、是は欲ばる為ではない。本当に神様の願いが成就する事の為に、是だけはどうでも分からせて頂かなければならない、頂かせて貰わなければならない。日々の御用も同じこと。本当の御用になりますように。
 だからそういう切実な心の中で何時も叫んでおる様な願いなんです。この五つの願いと云うのは。取分け一つ、二つ、三つと三番目の所。子孫繁盛家繁盛のおかげを願うと言う様な所までは、お互いが願ってやまない事なんです。それで果たして子孫繁盛家繁盛の元になるような信心をさせて頂いておるかどうか。果たして皆が健康のおかげを頂いておるか。家庭に不和の無きが元と仰るが、家庭円満の本当に家庭が拝み合うていけれるようなおかげを頂いておるか。いえ頂いてはいない。
 そんなら頂かなければならないから、どうぞ健康の害になる様なもの。健康を侵すような行いとか、食生活と言う様な事にも留意させてもらう。本当に家庭の不和が無いと言う事がです。是はどういうおかげを頂いても、家庭に円満のおかげを頂かなかったら、是は水の泡と同じ事と仰る。どういうおかげを頂いておっても、どういう地位があっても、財産があっても、どんな素晴らしい贅沢な暮らしを出来ておっても、家庭が不和であったらです。もうそれは全部水の泡と同じことと仰る。
 しかし是は考えてみると、本当にそうです。家庭が本当に円満であって、商売が大繁盛しておる。健康であると言う事であって、初めて全てが活きてくるのですね。子孫繁盛家繁盛さあ子供の為に、これだけの財産を作ってやったから、安心と言う事は決してありません。返って残してやった財産が、子供の重荷になったり、子供が出来損のうたりと云うようなものだけしか残さないと言った様な事ではいけません。
 財産を残しておけば、家蔵 財産がちゃんとあれば、子孫繁盛家繁盛の元になるかと云えば、決してそうじゃない。うちにはこういう沢山の田地、田畑を持って是を受け継いでさえいきゃ立派な百姓が代々できる。こういう大きな商売をしておるから、是が子供に孫に、必ず伝わっていくと言う事は、誰も約束しとるものは無い。お父さんの時にはあぁいう大繁盛のお店じゃったけれども、子供さんの時には潰れてしもうた。それでは子孫繁盛と云うことではないでしょうが。
 子孫繁盛の元と言う事はどういう事かと云うと、自分の頂いておる真の信心を、子供に孫に伝えた時に、初めて年勝り代勝りのおかげが受けられるなぁと言う事が云えるわけです。その為には、どうでも私自信が、真の信心を頂いて真の信心を受けて渡して行く所のお繰り合わせを頂かなければ出来んのです。そこでここには信心の稽古に来る所。又はまめな時、ここへ参って信心の稽古をしておけと仰るが、そういうおかげの頂けれる信心の稽古を目当てに、稽古をしておるかと言う事。
 どうぞこの事が成就する、頼まんならんこのことが願わんならん。その事だけの為のお参りであると言う事。その事がおかげが受けられる。願う事が良い事。願って良いのである。その為にはですおかげが受けられる為には、どういう信心をさせて頂いたら良いかと。真の信心をさせてもろうて、真のおかげを受けると言う事にあるのですから。私共が願いの根本になる所が、どうぞ今日も良い信心の稽古をさせて下さい。今日も良い信心を分からせて下さい。より本当な事を分からせて下さい。
 この願いを持ちませんとです。自分が、是が本当だと思っておる事を思いこんでですね。思い込むと言う事は素晴らしい事です。おかげを頂く事ですから。けれども真の信心と云うものは、そんな簡単なもんじゃない。本当云うたら今日の真は明日は嘘のものである。もう日に日にさらに進んでいくと云うのですから。一生が真の信心を求めていくというのですから。
 はぁ自分が、こらほんなこつと思うておったが、今日の御理解を頂いたら、もっとより本当があったなぁと、気づかせて頂く所に信心の稽古があるのですよ。ですからより本当な信心を分からせて下さい、真の信心を分からせて下さい。だから真の信心もピンからキリまであると云うこと。おかげを頂きよるけんこん位でよかよかと言う事であっては、信心の稽古をしておると言う事は云えません。そのおかげば頂く為に、ただ信心しよっとばいのと言う事になる。
 昨日は北野の堤さんところの謝恩祭でした。恒例の十何年続いております。私はあちらへ参りましてから、皆さんに聞いて頂いたことでしたけれども。それこそ毎年毎年宅祭をさせて貰う賑やかに、沢山の参拝者があって、本当にちょっとした教会じゃ勝たんくらいな参拝者もある何時も。けれども今度のお祭りぐらい、スキッとした有り難いお祭りを仕えた事は初めてだったと云うて話した事でした。
 とにかくお祭りを頂こうとする、その心構えと云うものがね、もちろん神様へ日々お取次ぎを頂いてでございましたけれども。皆さんもご承知のように、去年は一人息子であり、家の中心である、しかもまだ小さい子供がある、中心の堤喜代司さんが亡くなられると云うような悲しいことに出会われた。それからそりゃ成るほど一家の柱とも頼んでおる人が、しかも一人息子でしかも本当に親孝行で、信心も手厚くて毎日朝参りを自分の車にいっぱい近所、隣の方達を乗せてお参りをして来ると言う程しに。
 熱心な信心をさせて頂いておったんですから、本当に普通から云うたら、これほどの信心しておるのに、どうしてこう言う事が起こってきたじゃろうかと思うのも無理はないと云うほどしの事であった。けれどもおかげを頂いてです。去年の四月の十三日でしたかね。それから今日までの事をずうっと思わせて頂きますと、何かにがそれ以来というもの、順調さと云うか、本当にやはり喜代司の御霊が働いてくれておると云わにゃおられん、思わにゃおられん。
 神様のおかげを受け取ると思わにゃおられんと云うほどしのものを、一家中の者が最近特に感じ出してきた。だからやっぱりこれはお礼のお祭りぞと言う事になってきた。去年一年は、ああいう大変なことであったけれども、それもひっくるめて神様の大きいおかげの中にあった事だと云う風に分かってきた。それを実例を上げると本当に、第一お商売の上に、それこそ切って継いだ様なおかげを頂いておる。小規模にはなってる。全然外廻りを致しませんからね。
 お父さんはあんな風で体が不自由ですから、ほんな電話の番。嫁後が一人で自動車の運転出来ますから、廻して子供相手に年寄り相手にやっておると云うのだけれども、本当に素晴らしいタイミングの中に、おかげを頂いてお父さんの御霊が働いてくれておると思わにゃおられない。それこそ大きな災難がかかって来るばっかりのような、あの火事の時なんかの場合でも、その朝喜代司さんの御霊様が、真っ裸になって火のグルグル起きておる、もみ殻が起きておるその真中に座って。
 一生懸命ご祈念をしておる姿を頂いた。その晩じゃった火事があったのは。私は今度見て来ましたがここが焼けちから、どうしてここが焼けんじゃろうかちゅうごと。それがですね親子で一生懸命、しょうがないからご神前に行って、ご祈念をさせてもらった。そしたら完全にこちらへ吹いてきとった風が、向こうへ変わってしまったそうです。と云う様なそんな働きを受けております。ですから私は昨日真の信心と言う事について、様々に真の信心というのは説かれております。
 けれども真の信心のこの生き方をもってするならば、真の信心と言う事はです。さぁ毎年毎年おかげを頂いて、お礼のお祭りの一つもさせて貰わなきゃおられん。さぁまた売れたまた売れたと願いが成就する。商売人で云うならだから年に一回位の謝恩祭位はさせて貰わなければと。所が是なら誰でも出来ますよね。けれどもそれとは反対の事。それもこれ程信心するのにどうしてこう言う事が起こって来るだろうかと。
 昨日は堤さん所の、いつも親戚の方達が沢山参って来てましたけれど、昨日は何人かの方が、裏のほうへ手伝いにきとるだけであった。〆吉ばかりはどうしたバカじゃろかと。〆吉つぁんちゅうのが今のお爺さん。そのご兄弟がおられる。こりゃ私が想像なんですよ。とてもこげな目に遭うちから、又お礼のお祭りをするてなんてん、本当バカじゃなかじゃろかと云いよんなさるじゃろ。だからお参りもしてこないじゃろ。こら必ずお参りしよんなさったです皆親戚中が。
 所がどうでしょう。昨日はお参りが無かったけれども、お参りが去年よりもいっぱいでした。しかもね本当に有り難いお参りの人ばっかりで一杯でした。お供えなんかでもそりゃもう本当に見事なお供えでした。第一私はたまがった事はもうそれこそ、別に家を綺麗にしたわけでも何でもないけれども、スッキリお掃除のできておった事でした。こりゃ私十何年行くけれども、ほんに云うちゃいかんけれども、爪立って歩かんならんような感じでしたよ。行き届かんとお掃除が。
 それに隅から隅までそれこそ、普通のとこで云うなら当たり前だけれども、あそこの場合はそれが出来てなかった。それこそ障子から貼り替えて、キチッとした事でした。それこそ行ったら玄関にちゃんとお掃除が出来て、打ち水までしてあった。うちの者は誰ん出来んとです。お父さんはあんな体お母さんは一生懸命裏の方。嫁後はとてもそげな事の出来る事じゃないけれども、そう言う事の出来る人が御用に来ておると言う事は、誰々さんが今度は来て頂いたけん、今度は立派んなったじゃなくてです。
 そういう働きが始まっとると言う事です。だから真の信心というのはです、自分の都合ようなる時だけが有り難い有り難いと云う信心は、本当なものやら本当なものでないやら分からないです。信心しよっても雨もありゃ嵐もあるけれども。その雨の時に嵐の時にそれをどう受けたかと言う事で、真の信心とそうでない者との境がハッキリしてくるわけなんです。また勿論御神意を分かり、神様のお心が分かればです。それはおかげを頂いておる時よりも以上に、神様の願いと言うか思いと言うものはあっておる時。
 所謂真の信心をさせて下さって、真のおかげを下さろうとする働きなんです。真(しん)のおかげ、真のおかげと云うのはです、それこそ願わんでも頼まんでも、神様がちゃっとおかげを下さるほどしのおかげなんです。これは私の事を見て下さるが一番いいわけなんです。どういう難儀な場合であっても、それを受けて立たせて頂いてそういう時に、返って一段信心が奮い立っておると言う事です。それが今日の合楽のおかげです。
 ですからお互いがです信心の稽古に通うて来ておるというが、真の信心を目当てにしなければならない。それを言葉を砕いて云うと良い信心をさせて下さい、より本当な事を分からせて下さい。是が日々稽古に通うて来ておる稽古の焦点でなからなければならない。だから今まで自分が思うておった事が本当だと思うておっても、より本当な事を頂いたら、本当にこういう生き方があったという風に進んででかなければいかん。
 昨日私二階に控ええておりましたら、上滝さんが親子でおかげを頂いております。そして本当に事実おかげを受けとります。親先生何と云うても私の方は四人の息子がおりますが、四人の息子が本当に素晴らしい。親孝行してくれる。本当にこんな広大なおかげを頂いておりますと云うてお礼を言うておる。本当にあんた家はおかげを頂いとるねて。お父さんが丁度今長男が三十三になります。昨日一緒に参って来てます。丁度主人が亡くなったのがこの人の歳のこの月でしたと。
 ほうこげん若かった。こういう若さで亡くなった。そん時にはほんとに大変なことだったけれどもそこを受けて信心が、とやこう続かせて頂いて、特に御霊さんの働きを受けて、今日の息子どんが非常によう出来ておると云うおかげを頂いておる。そればってん上滝さん、あんた家にゃあんまり息子どんが親孝行するけんで、あんたが信心が却って出来んね。一人ぐらいは本当に親に心配さするごたっとがおると、あんたが時々ぐらいお参りしてこうばってんが。
 あんまりおかげの中におるけん、肝心要の信心が出来んねと云うて、笑い話しに話した事でした。してみるとです、お互いが今感じておる難儀と云うものは、そういう真の信心を分からせて下さろうとする働きより以外にはない事も分かるでしょう。おかげを頂いた頂いた。本当に、こげな幸せはないと云うほどしのおかげを頂いてです。信心が出来なかったら、こりゃ真の信心じゃないです。
 そういうおかげを頂いておるなら、より有り難いお礼の信心が、より本当な信心を分からせて頂こうとする姿勢、意欲を作ってこそ初めて、真の信心と言う事が云えるのです。その後に頂く様に、少しばかりのおかげにしがみついて、そのおかげから離れきらん。してみると、おかげを受けると言う事が良い事か、悪い事か分からん。もちろん良い事に違いはないけれども真の信心と云う、その信心の上に立ってのおかげじゃなからなければならないと言う事が分かるでしょう。
 本当に子供たちが親孝行をしてくれる。それで勿体のうして応えん。そら勿体のうして応えんという信心が、神様へ向けられた時に、初めて神様もおかげのやり甲斐があった事になるのであり、自分たちも限り無い信心を進めて行く事が出来る。おかげを頂いてあぁ有難うございます。いっちょんお参りはせん。してみるとそのおかげの為に、却って信心が出来んと言う様な事ではどうかねと感じた事でした。
 真の信心。例えばここで云われる、成り行きを大事にする。全ての事を御事柄として受けていくという。こういう生き方を是が真の信心でないはずは、勿論ありません。そらもう高度な真の信心です。けれどもその入り口の処真の信心と云いながら、どう言う事になるかと云うと真の信心とは、自分の願いが成就する事だけが信心ではなくて、それと反対の時にでもです。却ってより愈々の信心が出来る姿勢が出来た時に、あなたは真の信心の入り口に立ってるから、これを歩いてさえ行けば。
 真のおかげは必ず頂けると言う事が云えるのです。折角信心の稽古に、ここには通うて来ると仰る。またまめな時に信心の稽古をしておけと仰る。一生懸命参りよったばってん、稽古はいっちょんしとらんというならどうなりますか。真の信心を頂かなければならんが、頂く為には願わにゃならん。それで五つの願いと同じにです、どうぞ五つの願いを祈願をするならばです。それと同じにです、今日もどうぞより良い信心を分からせて下さい。良い信心をさせて下さい。本当の修業をさせて下さい。
 そこに求めて求めて止まない心と云うものが感じられます。真の信心を求めてのお参りでなからなければいけん。ここには、真の信心を求めて、その事をわからせて頂く為の稽古に通うて来ておるんだという生き方にならなきゃいけない。そら椛目合楽を通してです、それこそ人がたまがる様なおかげを受けた人と云うのは、沢山ありましょう。けれどもそういうおかげの人がです。
 はぁおかげを頂いて、おかげを頂いてとこう言いよるけれども、一度今度はおかげではない、それと反対の事が起こって来ると、今まで頂いておったおかげまでが、崩れてしまう。信心までもろく崩壊してしまう。そういう人達がどの位あったか分からない。結局より良い信心の稽古をさせて下さいと云う願いを持たない信心であったからだと思うのです。そこに難儀があるならばです。この難儀を通してより本当な事を分からせて下さいと云う。それを神ながらに頂いたんでは本当の神ながらでは有りません。
 そこを追及する心の姿勢と云うか。どう言う様な事が起きてまいりましても、それが雨であろうが嵐であろうがです。そこを辛抱し抜く所に神徳が受けられると仰る。何故かと、真の信心だからです。さぁ雨が降った、風があったちゅうたら、もうへこたれておると言った様な事ではです、神徳が受けられる筈はありませんよね。真の信心と云うのは、真の神徳を受けれる信心だと私は思います。勿論真(しん)のおかげ、真のおかげがそれに伴わない筈がない。
 私は皆さんに今日から一つ願って貰いましょう。けどももう一遍改めてですどうぞより良い信心をさせて下さい分からせて下さい。本当の修行をさせて下さいと云う願いを必ず、なさらなければいけないと言う事。心の中により信心をさせて下さいは問題がある。是で寄り良い本当な稽古をさせて下さるなと云う、その腹がいつも出来ておるそれを願っていないから迂闊にしとってから、ポカっとやられるとあ痛というのが先で本当に済みません有り難うございますが、出るような姿勢を作っておかなきゃいけません。
 昨日東さんが毎朝修行が始まってからお参りしてきております。正月の元旦の朝に家内がこういうお夢を頂きました。これは御神夢ち言うとじゃろうと思うけん、お父さんお届けしてくれとこう言う。一番上長男が小学校三年生かな。それがちょっと頭が弱い。だから普通の学校へ私はやれち言うけども、やっぱ親心達やら皆が、特殊な学校へ入れとるわけです。私は普通の小学校でええ先生から色々云われるから、云われたって構わんじゃけ、やりなさいと云うけどやっぱ親心ですね。
 特殊学校へやって親が毎日着いて行かんならん。そのお夢を頂いた。お母さんが子供を連れて学校へ行っておる。所がなんとそこの学校が合楽のお広前である。そして合楽の先生方がいっぱいおられる。そういうお知らせを頂いた。だから私が子供を連れて行く事も良いけれどもです、その心をその足を一つ今年だん、合楽に夫婦で向ける様にしたらどうかと私が言うた。お互いがね特殊学校にでも入らんならんほどしの自分という者を見極めれと私が言うた。心の不具者だそうでしょうもん。
 自分のはぁここで腹立てちゃならんと分かっとりながら、腹立てよるじゃないか。ここでこげんイライラする事要らんとばってん、日頃教えを頂いとるけん、ばってんやっぱイライラしよるじゃないか。それは自分の心を自由自在に使いきらない。所謂ちんば引いたり、目が瞑れたりしとるからなんです。だから怖かったりイライラしたり、腹が立ったりしよる。まず心の不具者である自分を自覚しなきゃいけん。屑の子吾という自覚をしなきゃいけない。だから合楽という処はいうなら特殊学校なんだ。
 そういう心の不具者の、自覚の出来た人達の集まりなんだ。そして、自分の心がです、どのような場合であっても、それ有り難い、有り難いと受けて行けれる。それこそ雨の時でも、嵐の時でも、それを神愛として受け抜いていけれるような心の状態を作っていく稽古を、今年こそはしなけりゃいけないぞと云う御理解でした。
 皆さんどうでしょうか。皆さんの一人一人がです。本当に心の不具者の自覚が出来ると言う事が教祖が仰る屑の子の自覚です。そう思う事が本当なんです。何故って自分でまだ、五体が自由自在に使えとるばってんか、心が自由自在に使えてないでしょうもん。自分の見る事も聞く事も歩く事も出来る。それは体が健全だからなんです。けれども心の段になると自由自在に使えないとこは、心が健全じゃないからです。心のかたわ者です。ですからそこん所を特殊学校へ通うて、おかげを頂いて行くと言う事がです。
 私は願いとする所が真の信心、本当な所を分からせて貰う。そこでより良い信心をさせて下さいと云う。今日もどうぞ本当の修行させて下さい。今日もより良い本当な事が分らせて下さいと言う所にです。必ずさらな信心が生まれてきます。何故って本当の事を稽古しよるんじゃから。はぁ今までんとは違うとったと言う事だから、違うとった所は空しうなってなくなって行って、新たな所だけが出てくるのですから、さらな心が生まれてこない筈がないです。
 そこに信心が楽しいものであり、有り難いものであると言う事になってくるです。そして、愈々より良い本当な信心。真の信心を目指して行く所に、真の信心が身について来るに従って、真のおかげが頂かれるのである。真のおかげというのはです。どうぞどうぞと云うおかげではなくて、それこそ神様が先回りをして下さる様なおかげを、真のおかげと、私は思います。
 どんなに私は真の信心をしよると云うてもです。そういう真のおかげが、伴うて来ないとするならば、大いに反省させて貰うて、今までの思い込んどった事は、それを検討してみて、より本当な事があった事に気づかせて貰うて、それを身につけていく。一つ一つ、一段一段進んでいく信心をさせて貰う。そういう願いに立っての信心でこそ、初めてここに信心の稽古に通うて来ておると言う事が云えるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。